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李朝、白磁扁壺です。
平たく大きな円形の胴に、短い口頸と長方形の高台を備えた白磁扁壺です。正面から見ると満月のような丸みを持ち、側面に回ると薄く扁平な姿を見せます。大きく張った胴と、すっと立ち上がる小さな口、足元を支える高台の取り合わせが美しく、李朝白磁の中でも強い造形性を備えた一品です。
時代は李朝後期、18〜19世紀寄りの作でしょう。釉色は青みを含んだ柔らかな白で、光を受けると淡い青白磁のような冷たさと、白磁らしい穏やかな温かみが交じります。胴にはわずかな鉄分や時代によるくすみが見られ、完全に均質な白ではなく、古い白磁ならではの静かな表情があります。広い面には細かな擦れや使用による艶の変化があり、長い時間を経た器肌の落ち着きが感じられます。
本品は、高台がしっかりと張り、胴の成形にも緊張感があります。量産的な雑器とは異なり、分院手の白磁、あるいは宮廷周辺で用いられた扁壺と思われます。装飾を一切持たず、かたちと釉調だけで成立しているところに、李朝白磁らしい端正さがあります。
扁壺は、実用の器でありながら、置かれた時の姿そのものに強い存在感があります。本品も、正面から見る円形の広がり、側面の薄さ、口と高台の小さな緊張がよく釣り合っています。白磁単独で飾ってもよく、李朝家具や古木、石、古陶と合わせると、白磁の輪郭がより際立ちます。
口縁、高台まわり、胴部に時代による擦れ、細かな傷、くすみ、釉のムラがあります。胴部には薄いニュウ、または釉面に沿った細かな線状の傷が見られます。高台には土汚れや使用痕があります。大きな欠けはありません。古いものとしてご理解ください。
商品写真を多数掲載しておりますので、詳細や状態をぜひご確認ください。ご不明な点がございましたら、お気軽にご相談下さい.
その美意識は、物の表面的な華やかさや技巧性にではなく、人の内面を静かに支えるかたちやありように重きを置くものです。器物や家具は、ただ使うための道具ではなく、日々のふるまいや心の状態を整える“道場”であったのかもしれません。文人の書斎に置かれた素朴な壺、簡素な机、飾りのない筆架──それらは、視線の先にある対象であると同時に、自身の姿勢や思考の鏡でもあったのです。
李朝時代の工芸品が「語りすぎない佇まい」を持つのは偶然ではありません。それらは、人の精神性と並走することを目的に生み出されたものであり、見る者を圧倒するのではなく、共に呼吸し、静かに整えるための存在だったと言えるでしょう。
たとえば白磁においては、釉薬のかすかな流れ、胎土の揺らぎ、形のわずかな崩れといった「非意図的な現象」が、そのまま良しとして受け止められました。そこには、完全性や均一性こそが価値であるという近代的な美意識とは異なる、もっと広やかな受容の精神が息づいています。この価値観は、自然と人為、美と不完全、物と心のあいだの境界を問い直すものであり、単なる工芸の枠を超え、ひとつの時代精神として息づいていたといっても過言ではないでしょう。
李朝の美は、あえて言うなら「顕示の美」ではなく、「共鳴の美」です。それは物そのものの魅力ではなく、物を通して人がどうあるべきかを問い直す契機としての美。そのために、物は語りすぎてはならず、隙間と余白、そして沈黙を内包していなければならない──そうした思想が、物作りの根底に流れているような気がしてなりません。
こうした価値観は、やがて海を越えて日本にも深く根づいていきます。とりわけ茶の湯の世界においては、李朝の白磁や粉青沙器が桃山時代にはすでに用いられ始めており、唐物の荘厳さとは異なる、素朴で静かな趣が受け入れられていきました。「語らぬものに心を澄ます」という茶の湯の感性は、李朝の器が湛える沈黙や不完全さと深く響き合い、そこに侘び寂びの精神を見出すまなざしが育まれていったのです。
さらに近代に入ると、柳宗悦や河井寛次郎ら民藝運動の思想家たちが、李朝の器に「人を清める力」「あるべき生のかたち」を見出しました。工芸が忘れ去られつつあった時代にあって、それらは単なる古器ではなく、生きる姿勢そのものを映し出す存在として、深い共感と敬意をもって迎えられたのです。
現代に生きる私が、李朝の工芸品に触れるとき、その静けさにまた、心が動かされます。そこには、人がどう生きるか、どう在るべきかを問いかけたひとつの時代の思想が宿っていて、それは今なお色褪せることなく、確かに響いています。
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